FC2ブログ

母の追憶 10 旅行


訃報を聞いたのは、寒い冬の朝だった。危ない状態は何カ月も前から数回あった。勿論、覚悟は出来ていた。逆に延命治療の方が、母には辛い日々だったようにも感じる。感じてはいけないことだが、感謝の裏返しでもある。
母の私物を取りに沼津に向かったのは、二月も半ば頃だった。品川駅から新幹線に乗り、三島駅に向かう。
母が沼津に来てから一年、私は五回ほど訪れた。今回が最後の沼津行きとなった。
旅行と言う概念は無いが、新幹線のスピードや景色の早い流れは、普段の生活から離れた高揚感があった。
この日は冬晴れの陽射しに薄い流れ雲が気持ち良く、青空に浮かんでいる。絶好のお出掛け日和だった。
新幹線の座席は振動が少なく、前に進む空気圧に、耳奥に違和感を残す。あまり感じられない体験とも言える。
母とは一度も乗った記憶が無いと思っていたが、一度だけあった。

家族旅行は、私が園児くらいから小学生の間、年に一、二回一泊程度の遠出だった。勿論、それ以前にもあったと思うが、私の記憶にあるはずもない。
園児の頃は、前にも書いたように車での遠出もあった。
基本は山か海、長野や熱海だったと思う。
当時の新幹線は庶民には、まだ、なじみが薄かった。少し上の乗り物だった。行きは東海道本線だったが、その混雑ぶりが酷かった。父が帰りの混雑に嫌気をさして、新幹線の自由席にしたようだ。混んではいたが早かった。
当然、母と乗った最初で最後の新幹線となった。
ここでは母の位牌を持ち、二度目の新幹線旅行と書きたかったが、例え、本当に持って出掛けたとしても、書けるかどうかは微妙な気持ちを持つと思った。後悔があるように思った。

母が亡くなった後は、大田区の決まり事に沿って進められた。沼津からの移動は霊柩車で、大田区平和島横にある、臨海斎場に決まる。
そこで私(母の死去、初めて会う)と親戚数名、最後の別れ~出棺~火葬~骨上げ、と成る。お葬式は出来なかった。辛いことであるが親戚も高齢となり、理解あった次第である。家族葬もそうだが、昔とはだいぶ考え方も変わったように思う。
そして、日を改めて納骨となる。父のお墓があるので、同じところに入ることに成る。お墓の下は意外と広い、父と母、二つだけの骨壺。近い内に私も並ぶので、三つに成る。
多分ではあるが、一番安く行った、母の最期であった。それでも六桁の半分くらいは、掛かった。貧しい人間と思われるだろうが、今の私の現状であり、法律上最低ラインだと思って頂ければ、何かの目安になると思います。

私が中学生になると姉たちも高校生以上になるので、家族旅行は少なくなった。そうなるとお金の余裕も出て来るのか、父母は二人で、九州、四国、近畿、京都など、遠出するように成った。
高校二年の夏、長野に家族旅行に行った。それは久しぶりの家族旅行だったが、あまり楽しくも無かった。すでに、私も姉二人も友だちと旅行していたので、いまさら的な感じがあったと思う。
それは父母にとっては寂しいことでもあった。子供たちの喜ぶ顔、それは過去のことになる寂しさであったと思う。
そして私が二十二歳、実家から独立していた時に、「K(上の姉)が結婚するので、最後の家族旅行にしない?」と母から電話を貰った。
子供たちの喜ぶ顔が見られなくなる。次にあるのは、自分たちの元から去られる辛さだった。本当は幸せなことなのに、父母の本当の気持ちを知るまでは、時間が掛かるものだと実感した。

何処に行ったか忘れたが、山の中の湖、ボートに乗った。父と姉二人でボート1艇、母と私で1艇、だった。
曇り空、薄い霧が立ち込める中、茂った木々の中をボートは、ギイコギイコと鈍く、動く。
「K九州に嫁ぐんだって?」母に聞いた。
「そうね。・・・・遠いわね」と寂しそうに言った。
「別に会えなくなる訳でもないし、Kが幸せならば、それも良いんじゃない」
「勿論そうよ。何も悲しんではいないよ」と遠い目をされた。
やや、重たい空気感のある会話を思い出した。この旅行自体、重たいものがあった。
以後苦難も続く。その翌年、母は直腸癌に侵されるが、無事生還する。すると、直ぐ後に父が脳溢血で亡くなった。
本当にこれが、家族五人で最後の旅行だった。

家族旅行は一つの行事だった。当たり前のように、年二度ほどどこかに行っていた。楽しいかどうかは微妙であった。思い出としても強い印象は少ない。
しかし父母にとっては、生きる上で大切な時間だったと思う。日々長時間の仕事、気分転換に旅行が一番である。そして、子供たちの成長も見える一場面でもあった。前回との違いや去年との違い、そんな成長も感じとっていたようにも思える。
しかし始まりがあれば、当然終わりもある。それがいつの日なのか?分からないのは、・・・・ある意味、突然で良いことかも知れない。
母の晩年、私との生活では忙しい日々は無くなり、大人になった私も成長は無い。二人での旅行は一度も無かった。当然のことであると、今分かったことである。

母は旅立ちました。もう、帰ることのない旅行に、ひとりで出掛けたのです。
さようなら、とは言いません。
行ってらしゃい。また会う日まで、・・・・。   終り。

このエントリーをはてなブックマークに追加

母の追憶 9 存在


子供の頃、母の存在は何も感じませんでした。それは当然のことで生まれた時から居るのが当たり前、あたかも空気と同じです。無ければ生きることも出来ない、それが母の存在そのものだったようにも思えます。
本当に感謝出来るのも、亡くなった今、思い出して改めて感じます。母の大きさそのもの、それが母の存在意義とも言えるかも知れません。

厨房での母の姿は、茶色いズボン(パンタロン?)に白い長靴とエプロン、上は季節で変わります。そしてどうしてか、片方の裾だけ少し巻き上ていた。
スカーフも欠かさず頭に巻き、体力の要る仕事でもあるので太ることは無かった。
小学六年の頃、子供の私から見ると、当然まだまだ大きな存在であった。しかし本当は、既に身長は同じくらいだったかも知れない。
出前と下げ(持って行った器を引き上げる)は、私の仕事だった。日曜日や祝日の昼だけ(11時~14時位まで)だったし、お小遣いも貰っていた。けれども嫌々遣っていた。
姉たちもお店の接客や電話応対をしていたので、お店の手伝いは当然だと思っていた。昼の三時間だけと言っても、夏休み冬休みと、大きな休みだと毎日の事です。夕方から遊べると言っても遠出は出来ない。サラリーマンの友達が羨ましく思っていた。
しかし小学生の私が、片手で膳台を持ち自転車に乗る姿は、それなりに評判は良かったし、女の子にもモテた、かな?今思えば家族のためにも、もっと孝行していれば良かったと思います。
家族でお店を繁盛させていた、あの時代あの頃が懐かしく、幸せだったことに気づかなかった、自分がいた。当たり前だと思う気持ちは、やはり空気みたいな日常だったと思う。
父は、私にお店を継いでほしいと思っていた。私は一貫して継ぎたくなかった。それは、今でも同じです。アルバイトでも飲食系の仕事は一度もしませんでした。人は合う合わない以上に、好き嫌いの方が上回るらしい。
小学六年は毎日が楽しく、それを陰から支えてくれたのが母だった。家族が皆元気、何よりのことです。私自身、病気らしいものはほとんど無く今に至っています。丈夫な身体も母のおかげだと思っています。

父方先祖のお墓が、川越にあります。ほとんど行く機会がありませんでした。過去三回位です。
私が実家に戻る一年くらい前だったから?平成六、七年、三十三歳辺りでした。母は蕎麦屋を閉めて、喫茶店にしてから五年程だったと思います。
実家を出たのが二十歳位で、それから年に数回は顔を見せに行く、程度でした。この日、母と会うのも一年振りくらいだったと思います。
当日、直接川越のお墓で母と待ち合わせることにしました。私自身、お墓のあるところなど分かりません。住所を頼りに、迷い迷いたどり着きました。

「長澤家の墓」父方の先祖が眠っていて、親戚が入っています。私自身、もし、父の墓が無ければここに入ることに成りましたが、父が亡くなった数年前、母は、大田区に「長澤家の墓」を建てています。
お墓の前で、お線香を置き、お花を飾る女性が居ました。直ぐに母だと分かりました。
真後ろに立ち止まりました。母は振り向き、少しビックリした表情を見せました。立ち上がり、「あなたもお線香あげなさい」と言って、小分けにして渡されました。
この時、母は小さくなった。そう感じました。
その後、近くの喫茶店に入り、姉たちの近況などを聞きました。
「あなた、立派になったね」と不意に言われた。それは、自分が母に対して小さくなった、と思いの対義語でもあった。
「別に、何もしていないよ。何にも業績など無いし、結婚も出来ないし、お金も無いよ。ただ、身体が大きくなった。それだけ?」照れもあるが、主観的なことは言えなかった。
蕎麦屋時代の母、ほんの数年前でもそうだったが、元気な姿は衰えることが無かった。実家で会い、厨房での姿をそのままの対象としてはいけないと思うのだが、・・・・やはり喫茶店に変わり、母の姿は、衰えが見えたように思った。
母の肉体的な衰えは、そのまま「存在」の無風化につながるのか?そんな寂しさがこの時あった。
母は、久しぶりに会えたことに喜んだが、私は、久しぶりに会えたことに悲しんだ。そんな一日だった。

母のことは、ほとんど何も分かりません。私の子供時代はともかく、三十三から母が認知症になるまで十六年間、同じ屋根の下に居たのに、母自身のことは、ほとんど何も聞かずに終わった。
いや、もしかしたら母が喋りたくなかった。それもあるかも知れない。今だったら聞きたいことが山ほどあるのに、どうしてだろう。
特に母の子供時代と、戦後、私が生まれるまでのことは、私の知らない世界の話である。でも、それは私が勝手に思う想像でしかない。どんな話を聞いたとしても、全て、私の中でファンタジーになってしまうものだ。
昔の現実は、厳しい時代でしかありません。時代劇やホームドラマを想像すると、現実との違いが分かると思います。

そうそう、母は現実主義者です。私が男のくせに、想像の世界に逃げるような性格だから、母みたいに強い女性に魅かれるようにも思える。普通は男女反対なのだが、情けない、私の弱みでもあると思います。
蕎麦屋時代の母は、厨房での姿しか印象にありません。
当たり前の姿こそ、母の存在そのものだったのです。蕎麦屋は三十年続いたと聞きます。その間、づーと厨房を守って来ました。いったい、何を考えて来たのでしょうか?
たぶん、今聞いたとすると、「何も考えていないよ。考えている余裕などなかった。」と言うように思います。
そう、母は現実主義者です。生きていてこその、存在だったのです。

このエントリーをはてなブックマークに追加

母の追憶 8 襖


昭和六十三年、母は裏隣りのSさんと共同で、二世帯住宅(中での行き来はない)みたいな形で新築にしました。
上の姉と私は実家から出て居なかったので、二番目の姉と母の生活が成り立てばそれで良かった。もともと十一坪程度の借地、二階建て、小さな家しか望めるものは無かった。
一階は、小さなお店(喫茶店)と厨房、お風呂、トイレ、玄関、階段。二階は、六畳和室の母の部屋、五畳半洋間の姉の部屋、四畳フローリング、ベランダ、一間の押し入れと半間の押し入れ、三階のロフトは広く、十畳以上の物置。
以前の荷物も多い。確かに母娘の二人住いなら、問題ない広さだと思った。しかし蕎麦屋時代の広さに比べると、イメージでは半分とでも思える、圧迫感は感じた。同じ土地の広さなのに、なぜ?
一つは土地屋敷の法律が昔と違う事。もう一つは、裏隣との境界線の関係だと言う。この話は、母も何回か私に愚痴を言っていた。

蕎麦屋時代、Sさんとは対角のお隣りIさんとの二軒長屋で(昔の東京では普通のこと)そのままお隣りIさんと、二階建て屋上(物置)に建て替えたそうです。
一階にお店と厨房、機械置場(蕎麦の粉やその他の材料置場としてある)とトイレ階段。お風呂は無かったが、十分な広さはあった。私が中学生以後、家族五人が一階で働いていて、お客さんが数人居ても、何の息苦しさはなかった。
二階は、六畳間、両親の寝室でお店が終わるまでは、子供たちの空間。それと六畳間を挟んだ対角に、四畳半の洋間と三畳の和室があった。私の成長と共に、姉たちとの部屋割りも変わった。
私が園児の頃は、姉妹が三畳間(私は母の横)。小学生時代は、姉弟三人四畳半の洋間。中学生以後は、私は三畳の和室、姉妹は四畳半の洋間。いつの時代でも猫一匹いた。
木曜日(蕎麦屋の休み)以外は、両親は子供たちの居る間は二階に居ない。ことでもあるが、二階の広さは十分だった。
上の中で一つの記憶に、私の小学生時代は四畳半の洋間に、二つ上の姉と五つ上の姉、三人の寝室となる。確かに寝るまでは、六畳の和室でテレビを観ることが多かった。
しかし四畳半の洋間に、二階ベットが有り(上が二番目の姉、下が私)隣のソファーベットで上の姉が寝ていた。その部屋には、三人の勉強机と二番目の姉のオルガンも有った。
ほとんど地に足が付くところは無かったと思う。洋服類は、さすがに他の部屋に有った?と記憶するが、・・・・狭さを感じないと言うよりも、そう言う生活に慣れていたと言った方が正しいのかも知れない。
昭和四十年代は、今で言うところのスラムそのものだったのかな?と思う。

小さな家に、今は私、独りで住んでいる。
一階は喫茶店の残骸とサロンの将棋関係その他、物置と同じである。二階は三部屋をひとりで使うが、広いとは思うが、意外とそうでもない。
築三十年の古さや破損箇所も所々に見られる。修理修繕のプレッシャーはある。最近やっとの思いで、ベランダを使えるように修繕した。それと同時に、ベランダのある部屋を模様替えしたら、一気に明るくなった。私の書斎(遊び場)とも言える空間なので、ブログにも良い影響が出ると思います。五月でもある今、気候の良い時期、部屋(パソコンを打ち)から天気の良い外を横目に眺められる、脳の活性化に良い働きをもたらします。
元の六畳和室は、母の寝室をそのままベットを替えて、自分の寝室としてある。四畳フローリングは、クローゼット類があるだけの空間。六畳和室と四畳フローリングの間が「襖」となります。そして四畳フローリングは、昔の四畳半の洋間と同じ位置になるのです。

母は襖をサーと開け、「あなたたち、早く寝なさい!」と少し強めに言いった。階段の上がったところに、四畳半の洋間(小学生時代の子供たちの寝室)がありました。暗い階段は、洋間の明かり漏れを容易に射し光ります。十一時過ぎ、母が夕食の後片付けを終えた時間、たびたびある日常的な光景だった。
「はーい、おやすみなさーい」と上の姉は、明かりを消しながら答えた。
明かりの消した後も子供部屋からは、クスクス、クスクスと笑い声や、小さな小声が続きます。

夜中いきなり、どんどん、どんどんとドアを叩く音で目を覚ました。
「あなたたち、いつまで起きているの?」と母は私の頭越し、ベットの前で怒鳴った。私は、「またか」と思い、説明するのも億劫になる。
「お願いだから、寝かしてくれよ。朝早いだろう、・・・・それに、あなたたちって、誰のことだよ。ここには自分、忠男ひとりだよ」と私は眠い目をこすりながら言った。
「だって、襖の明かりが漏れていて、話し声が聞こえたんだよ。KとA(姉たち)も居るんだろう?」母は何か思い立った様子を見せた。
「襖って?今、母さんが立っているところは、その、襖の中じゃないのか?周りを見て観なよ。姉さんたち居ないだろう。こんな時間に来ることないよ」
「そうだねえ、そうねえ、そうだね」と何回も謝り、母は周りを見回した。そして落ち着き、六畳和室に戻った。
認知症の初期、まだ家に居た頃、何回もあることの一つだった。

そして今、夜中六畳和室で寝ていると、襖の明かり漏れ、その光の先は天井に細く長く、光線の明かりが射します。すると身体は、金縛りの様に動けなくなる。
隣りの四畳フローリングからは、クスクス、クスクスと笑い声や、子供の小さな小声が聞こえて来るのでした。
母の言っていたことが、本当なのか?私の気が狂ったのか?分かりません。
襖がそ~と開き、天井に射す光が少しづつ広がるのが分かった。
朝、汗で濡れた寝間着を脱いだころには恐怖心も忘れ、今は自分と向き合うしかないと、思った。

このエントリーをはてなブックマークに追加

母の追憶 7 我儘


沼津には二カ月に一度、お見舞いに行くことに決めた。経済的時間的にも、そんなものだろうと思った。そしてもう一つは、寝たきりの上話せない、思考力もほとんどない、私のことも息子と分からない状態だった。
介護認定すら意味がない(重症患者)ようである。行っても仕方がないと思った。

雨上がりの午前、蒸し暑い梅雨の季節だった。
母の部屋は、移動式ベットのある小さな個室。新築の建物に、病院独特の匂いは消毒薬の香りを薄く感じる。窓から見える木々は青く、露を含むのがみずみずしい。
エアコンの冷却が湿度を落とし、快適な涼しさが、心地良い潤いをもたらしてくれる。
母は寝ている。少し痩せたか?ベットの横の椅子に座り、眺めているしかなかった。
背中越しの引き戸が開き、振り向くと、女性スタッフの方が入って来た。
「最近は、点滴と離乳食に成りました。暫くは普通の食事を控えています。また、食べられるようにならないと、・・・・」と忙しく、母の状態を確認する作業?とでも言うような動きだった。
「!?食べられるようになるのですか?」頭の中では、回復の見込み?と思った。
「食べられるようにならないと、体力が落ちてしまいます。・・・・リハビリに入れません。もう、歩くことは出来ないと先生がおっしゃって言ました。しかし、会話出来るところまでは、可能性はあるとのことです」
「もう歩けないは、以前私も先生に聞きました。・・・・回復の見込みは、知りませんでした」
話が出来るようになる?今の母を見ていると、とても回復出来る状態に無いと、素人目にも思えた。
親族である私に言えることと言えないこと、それはあると思った。最善を尽くす、それが今の医療である。
生きることは、今の母に本当に必要なことなのか?認知症は、脳の死を意味していると思う。死んだ脳を回復させる。今の母の状態から回復した例はどのくらいあるのだろうか?本当にあるのだろうか?
誰も望まないことを、国は国民にしている?それは個人的な意見で、正しくないことだけれども、母は望まないことを、・・・・我儘を受けているのだろうか?

私にとって我儘は普通のことだと思っていた。
厳格な父とは距離があり、母と姉二人に育てられたと言っても良さそうである。母は仕事が忙しく、時間をくれることは少なかった代わりに、物は比較的何でも買ってくれた。
小学生時代、貧乏な時代でも、食べることに関しては蕎麦屋であることもあるし、好きな時に好きな物を食べることが出来た。
「我儘に慣れる」環境が揃い過ぎていたとも言える。
クリスマスの意識は無かった時代だが、誕生日には比較的高額な物、地球儀、顕微鏡、自転車。普段でもミニカーやプラモデル、お小遣いはあたりまえだった。それぐらいは当然の子供は多かった。しかし、いけないことは飽きるのも早い方だった。
幼少期のことで、今両親に一番謝りたいことは何かと言ったら、三日坊主で、買った物を粗末にしたことである。金魚やカメ、意味のない買い物もそうである。強い記憶があるのだから、引け目も強いと思う。
物を大切にしない我儘は、中学生ぐらいに気づいたが、早く指摘してほしいことの一つだった。

母の私に対する溺愛は、私の我儘を助長させていたと思う。
園児の頃の拙い記憶だが、親同伴でのバス移動での旅行だった。どこかの施設で、サービスエリアでもなければ休憩時間でもなかった。移動の路上販売の形で、アイスクリームを運転手に売り歩いていた人が居た。エアコンの無い時代、そんな商売もあったのだろう。
私が欲しがると、母はバスの窓からアイスクリームを買ってくれた。当然、他の子供たちはどう思うのだろうか?後で、先生に注意を受けたのは当然である。
こんなことも、なぜ記憶にあるのだろう。それほど印象に残る出来事でもないと思う。
三年生だった。両親は、夜十時頃まで仕事の後片づけしてから、夕食を取る。私のジャンバーがあまりにもボロボロになっているのを見かねて、朝早くから繋ぎ縫いをしていた。
繋ぎ縫いの色合いが、ものすごくかっこ悪かった。以後、一度も袖を通すことが無かった。
「着たくない」の言葉に、母はどう思ったのだろうか?表情は思い出せないが、何も言わなかった。
物を大切にしない我儘は、やはり指摘しないといけない。教育には、怒ること甘やかすこと、境界線は難しいと思うが甘やかし過ぎであることには変わりない。
「なんで、たーくんばっかし!」二番目の姉の口癖である。
私の場合は、無駄な物を買い過ぎる傾向にあった。飽きやすさがそうさせていた。

断捨離、物を捨てることで方向性をハッキリさせる、さっぱりさせることだと思う。
物があふれている時代だからこそ、出て来た言葉だと思う。じゃ、なぜ、要らない物があるのだろう?少なくても、買った段階では必要だと思ったからだと思う。
古くなる、使えなくなる、必要なくなる、それらは捨てられる物(捨てる手間は必要)だが、やっぱり、必要だと思って捨てられない物はある。家の広さとの相談となる。
人は成長と共に、物は増えるものである。捨てる物が多ければ多いほど、その人は成長しているとも言える。
結局は、如何に無駄な物を買わない工夫、そこが大切なのではないかと思う。

母は、私の我儘(飽きやすさ)をどう思っていたのだろう。表情の無い、今の顔からは何も読み取れなかった。

このエントリーをはてなブックマークに追加

母の追憶 6 涙


要介護4(七段階の下から六番目)あたりになると、自身では何も出来なくなります。今いるデイサービスでは限界あるので、施設を変えなければなりません。そのような相談を、何回も受けました。
施設でも民間だと、程度(サービス)の問題や料金の問題も多くあります。要介護の高い重度の患者になると、引き取る施設も少なくなるし、いわゆる順番待ちとなります。
そんな時でした。母の知人がお昼の食事に連れ出して、(良くあることで問題ない)途中で転んでしまい、大怪我(重症)をしてしまいました。
入った病院は、大森にある東京労災病院でした。
症状は、股関節骨折で手術が必要となります。高齢のため、成功率は50%と言われました。死亡リスクある手術のため、親族の一筆を書くことに成りました。
手術は成功しました。一命を取りとめました。しかし、以後歩くことは出来ません。
手術後のお見舞いに、朝、労災病院に行きました。母は病院のベットで寝ています。五階だか六階だかの窓からは、首都高速道路が見えます。その向こうには、海が広がる景色を想像出来ます。薄く雲が流れ、所々に青空も覗かせる。晴れと言う感じでは無く、重たい空気とどんよりした生暖かい空気が、梅雨前を象徴している季節です。
手術が成功したと言っても、もう、歩くことは出来ません。食事もまともな物は食べられないと思います。喋れるようになるのか?認知症もどこまで改善するだろうか?すでに、人間ではないところまで来ているように思えます。
何か母の魂は、「死なせてくれ、死なせてくれ、楽にさせてくれ!」とでも叫んでいるようにも思えます。今の日本の法律がそれをさせない、最後まで治療の努力をする。正しいとか間違っているとか、そんなことを論議することでないことは分かります。個人の判断で決められることではありません。法律の問題です。

寝ている母の眼に光るものを感じました。母も苦しくて、泣くことがあるのだろうか?母の涙?過去にあっただろうか?父が急死した時、ほろりと流した涙はあったと思う。それだけか、いや、違う。
「強い女」それが母だった。
男勝りとか力が強いとか、そう言うイメージではない、女を象徴して芯が強い、という言い方が正しいと思う。

母の涙、一つ事件がありました。それはサロン時代に、教育として書きたいと思ったことですが、あまりにも私自身の駄目な生い立ちと、ほろ苦い記憶が書くことを止めさせました。
「泥棒ー!泥棒ー!」と小学校側を逃げる。私を追いかける、二軒隣の太った叔母さん。これは何だろう?ゲーム的な感覚を覚えていた、四歳の私がいた。
叔母さんのお店は駄菓子屋、いや、少し大きいお菓子屋さんだった。そこに近所の数年上の男の子から、お店の物を、お金を払わずに盗むことを教わった。もしかしたら、お金の価値観も分からない年頃だった。
盗んだ物は、ガムだった。裏にある他人の玄関先に並べていた。食べたい訳ではなかった。やはり、何かのゲームだったと想う。
叔母さんに捕まり、ガムの在処を突き止められて、両親に突き出された。本当に近所の顔見知りの話、半径十数mの世界だった。

四歳の子供が、一つ大切な倫理を覚えることには、良い実戦的な教材である。それは、今時代の感覚ではないと思う。この時代は身体で覚える、だった。
母は叔母さんに謝り、私を二階に連れて行き、正座させられた。
母は、何発もピンタしながら泣いた。泣きながら小言を続けた。そこに父が二階に上がって来て、蹴飛ばされて何発も殴られた。一生で一番両親に怒られた記憶である。
世間体を結構気にする両親であったが、この時は、大切な倫理を徹底的に叩き込みたかった、機会だったと思う。
痛みを身体で覚える、まさしくその通りである。
灰色の記憶は、今でもストーリーとして鮮明に残っている。しかし、殴られた痛みは覚えていない。母の涙は、この時の記憶だけしか残っていなかった。

働く姿しか記憶にない、それが母である。何かの会話でも厨房かお店での姿に成る。学校から帰れば、夕食まで外に遊びに行くか二階でテレビを観たりしていた。
夕食は、姉弟三人で食べることが多かった。自然、生活の中での母でしか分からなかった。子供時代もそうだし大人に成ってからも、母との生活は長いが、お互い干渉しなかった。
そんな親子だった。

労災病院での母は、死ぬことを許されなかった。
元のデイサービスにも戻れず、このまま労災病院に居ることも出来ない。大田区の生活課から言われたことは、地方にある、病院併合のデイサービス入居の薦めだった。東京には、他に空きのある施設がありません。
私に選択の余地などありません。言われるがまま、大田区の判断に任せるしかありませんでした。
地方の病院併合のデイサービスを何件か出してもらい、その中から選んだのは沼津市にある施設です。新幹線もあるし、そこが一番近かった。
沼津では一年居ました。それは、母にとって最期の一年となりました。
介護の現場は、延命治療の現場です。現場で働く人々、介護者本人、そして親族。誰がどのように考えようと、法律は、個人の勝手な判断(意見)は受け入れません。皆、決まったことをするだけです。
命の価値、他に勝るものは今の日本にありません。
私がどんなに空白の理屈を想像しても、それは間違っていることに成ります。それが今の日本の常識となるからです。

中学生の頃、「お母さんが泣いているよ」と二番目の姉が二階に上がって来て言った。「え!?」と驚き姉を見ると、「アニメ(アルプスの少女ハイジ)を観ながら、涙流していた」と微笑んだ。

このエントリーをはてなブックマークに追加

母の追憶 5 車


「美穂の迎えに、車でも出すかのう」と母は突然言った。
私は、仏壇への視線を母に向けた。丸く小さくなった母は、ベットに座り俯き加減で、視線は下を見ているような、いや、何も見ていない。記憶にある想いを、ただ、言葉に出しただけだと分かった。
美穂の迎えに、・・・・それは今神奈川に居る、二番目の姉の娘である。二十数年前、まだ美穂が園児の頃の話だった。姉夫婦の都合で、ひと月ほど美穂を預かる事があった。
神奈川の幼稚園まで、普通は母が雑色駅から電車で連れて行っていたが、たまに時間が無い時に、母が車で連れて行くこともあった。
母は六十代まで免許証を持っていたし、運転も何とかこなしていた。

母は時計を見て、「美穂の迎えに、車借りるよ」と忙しく動き、朝食の後片づけをしながら言った。
「え!?また、今週二度目だよ。俺だって使うのに、・・・・誰の車だよ」と身支度をしながら私は言った。
「あなたは近いんだから、歩いても行けるでしょう。美穂だってその方が楽でいいんだよ」と台所の方から聞こえた。覗くと、美穂が果物を食べている姿が見えた。
私は何も答えず、それが了解の合図だった。

私が園児の頃、母は三十代半ばの時、免許証を取り、車を買った。今思うと、三人の子供が小学校や保育園に通うようになると、少しお手すきになったところでの挑戦だったと思う。週六日は朝から晩まで働いて、三人の子供を養いながら、木曜日の休みだけでの免許取得である。他人から見ると、何ともバイタリティー溢れる叔母さんである。
母の実家は千葉県市原市の山の中にある。疎開と共に一家十数人、東京都板橋区にあった、材木問屋の邸宅を捨ててのことであった。母は、中学入学と同時に田舎生活に入った。少しタイミングが悪く、東京での生活をある程度謳歌してのことだった。田舎生活を心底嫌っていた。
終戦前後で金属類回収令もあり、自転車などありません。中学校まで往復六時間、怖い獣道を歩くのがトラウマになったと言っていました。
そんな母の田舎の実家です。千葉県と聞くと、意外と近いように思えます。小湊鉄道の月崎駅から歩いて二時間?もっと遠いかな?田舎では、とても車無しでは生活出来ません。
車購入当時は、お店も忙しかったし、それまで実家に帰ることはほとんど無かったと思います。その手段としての車購入も、意識に有ったと思います。
しかし後先、母の運転で田舎に行ったのは一回だけでした。私自身、成人までに母の実家に行ったのはその一回だけで、後に私が車を買い、アクアラインが出来るといきなり行きやすくなったので、母の晩年は、年二回くらい連れて行きました。
母は働くことも人の二倍ですが、意外と遊ぶことも忘れていない性格だったのかも知れません。

小学三年、夏休みのある日でした。
朝五時の出発です。私と二番目の姉はもの凄くはしゃいでいました。車は小さくても(ファミリア)親子五人でちょうど良かったと思います。川崎港からフェリーで行きました。
田舎、親戚の人たち、フェリー、田舎道、田舎のお祭り、満天の星空、そして汗を滲ませながら感じる、草木の新鮮な匂い。強い陽射しが青々と緑を彩り付ける。遠くに見える風景までもが落ち着き払った大自然、青い空には薄く白い雲が広がり、野鳥の鳴き声はときより響き渡る。
今思い返すと、何度か思う田舎の原風景だった。当時の私、初めて行った時にはどのように感じたのでしょう。あまり記憶にありません。
なぜ、母の運転で行ったのが一回限りだったのか?思うところは、車での山道(昭和四十五年頃は、車道がほとんど整備されていなかった)が思いのほか危険だったのと、二番目の姉が車酔いが激しかったことだと思う。

母の運転で遠出は何回もあるようだが、私の記憶にはあまりない。どこに行ったのか覚えていないことの方が多い。
近場でも、羽田空港に飛行機を見に行ったことはある。夜、父母だけでどこかに出かけ、園児である私は、誰もいなくて泣いている姿も瞼の後に浮かぶ。
保育園は、母の自転車の後に乗せられて行ったが、雨の日などは車を出すこともあった。
「忠男の迎えに、車でも出そうかしら?」雨の降り頻る外、雨足を聞き、独り言のように言った。
お店での朝食は、いつもパンをトースターで焼くのが決まりである。小学生である姉二人と母、四人の食卓。私は、たぶんピンポンパンでも見ながら目玉焼きを頬張り、パンをかじっていたのだと思う。
「忠男の迎えに、車でも出そうかしら?」
その言葉に私は何も感じない。いや、理解出来ないと言った方が正しい。母の選択に疑問など無く、時間までに保育園に行ければ良い。それだけである。

美穂が果物を食べる姿に自分を投影したのは、現実のその時ではない。
「美穂の迎えに、車でも出すかのう」と母は遠い過去を思い返し、フッと言葉に出した時だった。
園児、それは美穂と忠男、違いがあったのだろうか?・・・・もう、母の記憶をひも解くことは出来ない。
「美穂の迎えに、車でも出すかのう」
私の記憶に、二つの出来事が同時に回想された瞬間だった。

このエントリーをはてなブックマークに追加

母の追憶 4 愛情


私の母に対する暴力は、エスカレートする前に大田区(行政)によって未然に防ぐことが出来ました。
それは、デイサービスに全て任せることです。親子分離です。これも実例の多い判断のことだそうです。
しかし金銭的な問題が分かりませんでした。それを解決したのが、母の資産を全て出すことによって、母だけを生活保護にすることです。
自営業である母には、基礎年金と数百万(下の方)の貯金、持ち家(借地)がありました。
価値の低い持ち家は生活必需品のため、私が相続して、私自身の車(贅沢品)は処分しました。母の年金と貯金は没収となりますが、私の貯金(すでにサロンがありまして、額は少ない)はそのままです。
結果を言いますと、その後三年ほど母は生きていましたので、かなりの額を大田区で負担されたのだと思います。この恩恵で私自身立ち直ることも出来たし、悲惨な結末を迎えることも無くなりました。

通いでなくなったと言っても、最初の二年間は、歩いて三十分程度の近さにありました。良く顔を見に行きました。
介護認定は、要介護3(七段階の五番目)あたりだったと思います。まともな会話は出来ません。それでもトイレは、まだ自分で済ませたと思います。お風呂は手伝ってもらっていました。施設内の俳諧はあるそうです。
私に対する息子である認識は、微妙であるがあったと思います。
母を見ていると、人間は身体が衰えて死が近づくと思っていましたが、違います。今時代は、脳が先に衰えるように思えます。長生きのコツは、脳の衰えを防ぐことにあることだと分かります。

母は、息子の私に何か聞くことは少なかったと思います。同じ生活の中で込み入った話は無く、お互い空気の様に生きていたように思えます。
私がデイサービスに来ても、お互い目を合わせる程度で、挨拶もありません。
二人で母の部屋に入り、母は自分のベットに座り、落ち着きます。
一つしかないサッシの窓から、昼下がりの木漏れ日が部屋の一部を射し、午後の明るさは蛍光灯を必要としません。
「ホームの皆さんに迷惑ばかりじゃないのか?」「・・・・。」
「食事は美味しい?」「・・・・。」
「何か楽しみはあるの?」「・・・・。」会話にならない。何を言っているのか分からないようだ。
すると突然、「駄目だ、駄目だ。早く帰らないと、食事の支度もあるし、・・・・」と言い出す、今度は私の方が無言に成る。
箪笥が一つあり、その上に父の神棚、横に小物がいろいろ飾られていた。それらを手に取り眺め、訪問者と撮ったであろう写真も飾られていた。
その中の一つ、写真立てに写っているのは猛であった。上の姉の息子で、もう三十になったであろう、園児時代の写真である。
彼が作ったプラモデルの自動車を誇らしげに掲げて、満面の笑み、何とも言えない一枚である。姉の家族は九州に居て、ほとんど東京に来れない。この写真は、家にあったものを持って来たものだ。

母親の優しさ、全ての子供たちの願いであることに間違いない。私も子供時代、母のおかげで幸せな日々を送ることが出来た。
子供は母親から生まれる。子供は母親の一部であり、子供の幸せは、そのまま母親自身の幸せと言えるのだと思う。
「お小遣いちょうだい」
小学一年、夕方私は、お店と厨房の境にある、料理を出す空間から母を覗き、聞いた。
「今日はね、もう五百円だよ」と仕事しながら母は言った。
自分でも、今日は使い過ぎていたのが分かっていた。まだ、お小遣いの値段が決まっていない年齢だった。普段なら三十円~五十円でも、「今日は終わり」と言われたり、最初から今日は無し、と言われることもあった。
この日は日曜日で、朝から「お小遣いちょうだい」と言うと、三十円~五十円くれた。それが何回か続いた。どうしてか分からないが、母なりに何か、金銭感覚を伝えたかったのだと思う。
使う場所は、近所の駄菓子屋か小さなおもちゃを売る、何でも屋みたいなお店だった。
何を買ったのか覚えていないが、ほとんど意味のないお菓子やたわいのないおもちゃだったと思う。時間つぶしの遊び道具でしかない。
その中に安いプラモデルもあった。プラモデルは良く買うのだが、根気が無く、あまり完成させた記憶がない。しかし、この日の午前中に買い、完成させた自動車のプラモデルは、お店で皆に見せた記憶がある。
勿論母も喜んでくれた。子供の喜びは母親の喜びである。
この日の「お小遣いちょうだい」は、母にはどのように聞こえていたのだろうか?私の我儘には寛大だった母。それを妬む姉たちは、今でも会うと口にする、材料の一つである。

母は、孫である猛にも深い愛情はあった。しかしあまり会うことが出来なかった。
この、猛の写真立てがあるのは昔から知ってはいたが、自分の幼少時代、記憶が重なったのは初めてのことだった。

このエントリーをはてなブックマークに追加

母の追憶 3 暴力


会社を辞めた。事情はいろいろあった。母の介護は大きな問題として頭の片隅から離れない。しかし十年以上勤めた会社、もったいない気持ちもあった。
まずは母の問題である。
ひとりで悩むことは無い。十年前でも介護関係の施設は多く在った。お金は少しの余裕はあったが、介護に期限が無い不安はある。そこでまず、大田区に相談に行った。
介護認定は、最初は要支援2(七段階の下から二番目)だったと思う。そして、地域包括支援センター(デイサービス)に週三回通うことにした。この辺りは、金銭的な負担もまだ軽かった。
私自身も、派遣登録での仕事を週三、四回しながら先のことを考えていた。と同時に五十も近くなったので、体力的な問題も考え、コナミスポーツクラブに通うことにした。
借地持ち家、母子の生活なので生活余裕がある訳ではないが、この頃の精神的な負担は軽かった。
とにかく他人に相談する事、特に行政に相談することは、「今」を生きる最大の特益だと思う。

母の生活も、いやいやだったが週三回昼間デイサービスに通う以外は、数少ないお客や友達とお店に居ることが多かった。
家事は出来なくなっていた。レンジ、トースター、電気ポット、朝昼はそれら自分で出来る簡単な食事で済まし、夜は、私がお弁当を買って来る。または車を出してファミレスに行くことも多かった。

始まりは雨の日の夜中だったと思う。ベットの頭越しに立つ母、誰かと話している。相手はいない。
私は目を覚ますが、それが夢なのか現実なのか分からなかった。身体を起こして目覚ましを手に取る、二時だった。
振り向き、「どうしたの?」と聞くと、呆然と立ち尽くし、「大きな男の人が居るんだよ、雨に濡れて髪の毛から雫が垂れてさあ~」と言った。
「何処に?」「隣の部屋さあ~」と言ったので、私はベットから起き上がり隣の部屋に行った。人の気配は無い。電気を点ける、いつもと変わらない。蒲団が敷いてある。外の雨雫がピシャピシャとサッシに音立てている。
「誰もいないし、蒲団も濡れてないよ」と言うと、母は蒲団を摩り首を捻り、「おかしいわね、今、本当に男の人が雨に濡れながら立っていたんだよ。・・・・ここに」
「何も問題ないから、寝るよ」と言って隣の部屋に入り、ベットに潜り込む。
母の認知症は、まだ軽い方だった。基本このくらいのことは問題ないと思う。しかし、違っていた。
この日は、同じようなことが三回あった。とても眠れたものではなかった。それから毎日ではないものの、「誰かが居る、大きな男の人が居る」と言われ、夜、起こされるようになった。
私も精神的にダメージが蓄積して、そして、とうとう手を上げてしまった。
「いつもいつも、いい加減にしろ!」と言って、ピシッ!とかなり強めに殴ってしまった。自分でやってしまったことなのに、ピシッ!と言う音だけは、闇の中から聞こえたように思えた。

父は嫌いだった。本当に弱い人間だった。昼間は普通に仕事している姿しか記憶に無かったが、毎晩のようにお酒を飲んでいた。
ドラマでありがちだが、お酒を飲んで母に暴力を振るう、そこに泣き叫ぶ幼子三人、幼少時代の日常の中にある、一つの光景だった。

小学一年だったと思うが、ハート型でピンク色の消しゴムを買った。それは真ん中にギザギザしたヒビがあり、二つに分かれるように出来ている。
ある日、厨房で働いている母に消しゴムを見せて、「お父さんとの仲はどのくらい?」と聞き、消しゴムの真ん中を大きく開いて、「このくらい?」と聞いたことがあった。
幼少の私は、母は、父に殴られてばかりいるものだから、父のことが嫌いだと思っていたようだ。それで、ハート型の消しゴムを開いて聞いたのだと思う。
母は仕事の手を休め、「貸して」と言った。ハート型の消しゴムを手に取り、ピッタリと閉じて、「これぐらい」と言った。
お店で仕事していた父も、その光景をチラッと見たように感じた。
母から、ピタッと締まったハート型の消しゴムを返され、意外な答えにボー然とした記憶がある。
父の暴力は、お酒を飲み過ぎた時に起こることで、普段はとてもおとなしい人である。私が中学生くらいになると、家族旅行は無くなり、父母二人だけで行くことが多くなった。本当に仲の良い父母だった。
中学三年のある晩、隣りの部屋で父が母に手を上げたとき、「やめろー!」と怒鳴り、父の腕を逆に引いたことがあった。意外ともろかった。私の方が身体が大きくなっていた。
それが初めて、父に対する反抗だった。後先それ一回だけだった。なぜなら、それ以降父が母に対する暴力は見なかった、少なくても私が見ることは無かった。
その時の母は、私に対して何か不満を言ったように思う。何を言ったかは聞き取れなかった。

ピシッ!と母を強く殴ったのは父ではなく、息子の私だった。
それからは、たびたびあることとなった。そして、ガスコンロで鍋に穴をあけるようになると、「火事だけは絶対に起こしては駄目だ!」と私の暴力も多くなった。
そしてデイサービスの方から、母の腫れ上がった顔に異変を抱き、母の処遇に対する訪問を何度も受けるようになった。
その頃の母の介護認定は、要介護2(七段階の下から四番目)まで上がっていた。

このエントリーをはてなブックマークに追加

母の追憶 2 鍋


責任とは、どういう言葉でしょうか?社会に対する責任、家族に対する責任。基本は、二つあるように思えます。
私の場合は独身なので、家族に対する責任(嫁いだ姉二人は、私にはそれほど関係ありません)は母だけ(父は既に他界)です。母に対しては、どんなことがあっても最後まで見守らなければいけません。
そして社会に対する責任です。会社勤めだと、どうしても自分勝手な行動が出来ないものです。良く聞く言葉に、「介護のために会社を辞める」そのようなことはありがちです。
会社を辞めて、将棋サロンを始める。
もしかしたら、心の奥底にそんな気持ちもあったと思います。それ以上に、サロン経営を甘く見積もっていたようです。
確かに母の認知症の初期には、自分も将来の不安から、何か変わらないといけない。そんな気持ちだったように思います。

私が四十八歳、母は七十九歳の時、ここが転機でした。
私は月~金は、昼間会社勤めです。土日もほとんど昼間は家にいません。母は一日中お店(家)に居ますが、この頃はお客さんも少なく、ほとんどテレビを観ているような感じでした。
それでも家事はしていたと思います。認知症は、物忘れがごくたまに、まだ生活に支障は出ていませんでしたが、・・・・私が台所で見たものとは、「鍋どうしたの?」「え!?何が?」
ガスコンロの上にある鍋、底が煤だらけで真っ黒い鍋を見つけた。下にも穴の開いた鍋が一つあった。
「これじゃ使えなくない?」
「使えないわね~。どうしたのかしら?」
「ここには自分と母さん以外は入らないでしょう。自分が知らないことなら、母さんが何かしたことに成るよ」
「そうよね。どうして鍋底が燃えたのかしら?」
火を点けたことを忘れてしまった。それだけであるが、そのショックが大きく、ほっとくことが出来なくなった。

小学生高学年の頃、母の手料理は蕎麦屋としての記憶の方が強かった。友達からは、「いつでも好きな物食べられて、いいなあ~」と羨ましがられたものである。かつ丼、カレーライス、天婦羅蕎麦、たぬきうどん、実際にそうであった。
昭和四十年代は、子供が食べたいときに食べられる時代では無かった。
店が終わるのは夜九時と決まっていた。だいたい八時頃、二番目の姉が厨房に入って支度する。勿論母も手伝うが、姉は小学生の頃からそうだった。両親は仕事で忙しい。
店を閉めると、お店で姉弟三人で夕食に成る。食べ盛りの私が、給食以後、九時まで我慢できるものではなかった。当然四時頃、お店の物を食べることに成る。
その頃お店のコーラやファンタも飲み放題だったので、炭水化物(糖質)+糖質の取り過ぎで、馬鹿になったのは当然だと思う。

ある日の午後、どうしてもオムライスが食べたかった。お店の献立には無いものの、母にねだることは多かった。
「ご飯炊くのに30分掛かるよ。蕎麦かうどんにしなさい」と厨房の方から母の声がした。
私はお店のテレビに目をやり、空腹と食べたい物を天秤に乗せる。ちょうど良い季節の夕方、西日はお店の中までも、日向と日陰をくっきりと分ける。蛍光灯の明かりが、まだ弱い時間帯であった。
「炊けるの待つからオムライスにして、」と誰もいないお店の椅子を引き、座りテレビを観るが、面白くなく、空腹だけがやけに身体に堪える。
母は厨房に居る。それだけでも、子供の私には特別なことではない。それが安心感と言うものである。
時計を見ると、30分経った。私は、「出来たー!」と厨房に入った。大きな窯と四角い流し、その奥に水樽が二つ、炊飯器も大きく、ガスコンロは三つあり、その一つに味噌汁の作り置きの鍋がある。隣りのまな板がまた大きい。
一日に二百人以上の調理をする。それが母の仕事場である。
「蒸すのに15分、調理に5分」とキッパリ言った。
「嘘つき」と言って、空腹に我慢できない私は、二階に行って置時計を持って来た。お店の奥にある大きな鏡の前で、置時計とにらめっこ。1分経つごとに長い針が一つ動く。
待つ1分は長い、空腹感を助長するだけだけど、「1分経った、後19分。また1分、後18分。長い!動いた、後17分」とお店で遊んでいる、馬鹿な自分を思い出す。
母は、何を思って厨房に居たのか?その表情を意識することは無かった。ただ、息子が腹を空かしているから何かを作る。意味など無い、母としての本能だと思う。

「味噌汁でも飲んで、待っていなさい」と厨房から声がした。
母はコンロに火を点けて、味噌汁を温める。厨房での母の姿は日常である。だから忘れることの出来ない姿として、瞼に残る。
フッと思い出す、子供時代の母の記憶だった。
コンロの上にある鍋、そこが煤だらけで真っ黒い鍋、今は昔の母ではなかった。

このエントリーをはてなブックマークに追加
プロフィール

長澤忠男

Author:長澤忠男
人は「私はこういう人間だ」と自分で考えるその通りのものになります。
それと異なったものになることはない。

御釈迦様の御言葉より

最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
カレンダー
04 | 2019/05 | 06
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31 -
天気予報

-天気予報コム- -FC2-
アクセスランキング
[ジャンルランキング]
小説・文学
557位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
オリジナル小説
73位
アクセスランキングを見る>>
FC2カウンター
フリーエリア
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
フリーエリア