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母の追憶 5 車


「美穂の迎えに、車でも出すかのう」と母は突然言った。
私は、仏壇への視線を母に向けた。丸く小さくなった母は、ベットに座り俯き加減で、視線は下を見ているような、いや、何も見ていない。記憶にある想いを、ただ、言葉に出しただけだと分かった。
美穂の迎えに、・・・・それは今神奈川に居る、二番目の姉の娘である。二十数年前、まだ美穂が園児の頃の話だった。姉夫婦の都合で、ひと月ほど美穂を預かる事があった。
神奈川の幼稚園まで、普通は母が雑色駅から電車で連れて行っていたが、たまに時間が無い時に、母が車で連れて行くこともあった。
母は六十代まで免許証を持っていたし、運転も何とかこなしていた。

母は時計を見て、「美穂の迎えに、車借りるよ」と忙しく動き、朝食の後片づけをしながら言った。
「え!?また、今週二度目だよ。俺だって使うのに、・・・・誰の車だよ」と身支度をしながら私は言った。
「あなたは近いんだから、歩いても行けるでしょう。美穂だってその方が楽でいいんだよ」と台所の方から聞こえた。覗くと、美穂が果物を食べている姿が見えた。
私は何も答えず、それが了解の合図だった。

私が園児の頃、母は三十代半ばの時、免許証を取り、車を買った。今思うと、三人の子供が小学校や保育園に通うようになると、少しお手すきになったところでの挑戦だったと思う。週六日は朝から晩まで働いて、三人の子供を養いながら、木曜日の休みだけでの免許取得である。他人から見ると、何ともバイタリティー溢れる叔母さんである。
母の実家は千葉県市原市の山の中にある。疎開と共に一家十数人、東京都板橋区にあった、材木問屋の邸宅を捨ててのことであった。母は、中学入学と同時に田舎生活に入った。少しタイミングが悪く、東京での生活をある程度謳歌してのことだった。田舎生活を心底嫌っていた。
終戦前後で金属類回収令もあり、自転車などありません。中学校まで往復六時間、怖い獣道を歩くのがトラウマになったと言っていました。
そんな母の田舎の実家です。千葉県と聞くと、意外と近いように思えます。小湊鉄道の月崎駅から歩いて二時間?もっと遠いかな?田舎では、とても車無しでは生活出来ません。
車購入当時は、お店も忙しかったし、それまで実家に帰ることはほとんど無かったと思います。その手段としての車購入も、意識に有ったと思います。
しかし後先、母の運転で田舎に行ったのは一回だけでした。私自身、成人までに母の実家に行ったのはその一回だけで、後に私が車を買い、アクアラインが出来るといきなり行きやすくなったので、母の晩年は、年二回くらい連れて行きました。
母は働くことも人の二倍ですが、意外と遊ぶことも忘れていない性格だったのかも知れません。

小学三年、夏休みのある日でした。
朝五時の出発です。私と二番目の姉はもの凄くはしゃいでいました。車は小さくても(ファミリア)親子五人でちょうど良かったと思います。川崎港からフェリーで行きました。
田舎、親戚の人たち、フェリー、田舎道、田舎のお祭り、満天の星空、そして汗を滲ませながら感じる、草木の新鮮な匂い。強い陽射しが青々と緑を彩り付ける。遠くに見える風景までもが落ち着き払った大自然、青い空には薄く白い雲が広がり、野鳥の鳴き声はときより響き渡る。
今思い返すと、何度か思う田舎の原風景だった。当時の私、初めて行った時にはどのように感じたのでしょう。あまり記憶にありません。
なぜ、母の運転で行ったのが一回限りだったのか?思うところは、車での山道(昭和四十五年頃は、車道がほとんど整備されていなかった)が思いのほか危険だったのと、二番目の姉が車酔いが激しかったことだと思う。

母の運転で遠出は何回もあるようだが、私の記憶にはあまりない。どこに行ったのか覚えていないことの方が多い。
近場でも、羽田空港に飛行機を見に行ったことはある。夜、父母だけでどこかに出かけ、園児である私は、誰もいなくて泣いている姿も瞼の後に浮かぶ。
保育園は、母の自転車の後に乗せられて行ったが、雨の日などは車を出すこともあった。
「忠男の迎えに、車でも出そうかしら?」雨の降り頻る外、雨足を聞き、独り言のように言った。
お店での朝食は、いつもパンをトースターで焼くのが決まりである。小学生である姉二人と母、四人の食卓。私は、たぶんピンポンパンでも見ながら目玉焼きを頬張り、パンをかじっていたのだと思う。
「忠男の迎えに、車でも出そうかしら?」
その言葉に私は何も感じない。いや、理解出来ないと言った方が正しい。母の選択に疑問など無く、時間までに保育園に行ければ良い。それだけである。

美穂が果物を食べる姿に自分を投影したのは、現実のその時ではない。
「美穂の迎えに、車でも出すかのう」と母は遠い過去を思い返し、フッと言葉に出した時だった。
園児、それは美穂と忠男、違いがあったのだろうか?・・・・もう、母の記憶をひも解くことは出来ない。
「美穂の迎えに、車でも出すかのう」
私の記憶に、二つの出来事が同時に回想された瞬間だった。

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母の追憶 4 愛情


私の母に対する暴力は、エスカレートする前に大田区(行政)によって未然に防ぐことが出来ました。
それは、デイサービスに全て任せることです。親子分離です。これも実例の多い判断のことだそうです。
しかし金銭的な問題が分かりませんでした。それを解決したのが、母の資産を全て出すことによって、母だけを生活保護にすることです。
自営業である母には、基礎年金と数百万(下の方)の貯金、持ち家(借地)がありました。
価値の低い持ち家は生活必需品のため、私が相続して、私自身の車(贅沢品)は処分しました。母の年金と貯金は没収となりますが、私の貯金(すでにサロンがありまして、額は少ない)はそのままです。
結果を言いますと、その後三年ほど母は生きていましたので、かなりの額を大田区で負担されたのだと思います。この恩恵で私自身立ち直ることも出来たし、悲惨な結末を迎えることも無くなりました。

通いでなくなったと言っても、最初の二年間は、歩いて三十分程度の近さにありました。良く顔を見に行きました。
介護認定は、要介護3(七段階の五番目)あたりだったと思います。まともな会話は出来ません。それでもトイレは、まだ自分で済ませたと思います。お風呂は手伝ってもらっていました。施設内の俳諧はあるそうです。
私に対する息子である認識は、微妙であるがあったと思います。
母を見ていると、人間は身体が衰えて死が近づくと思っていましたが、違います。今時代は、脳が先に衰えるように思えます。長生きのコツは、脳の衰えを防ぐことにあることだと分かります。

母は、息子の私に何か聞くことは少なかったと思います。同じ生活の中で込み入った話は無く、お互い空気の様に生きていたように思えます。
私がデイサービスに来ても、お互い目を合わせる程度で、挨拶もありません。
二人で母の部屋に入り、母は自分のベットに座り、落ち着きます。
一つしかないサッシの窓から、昼下がりの木漏れ日が部屋の一部を射し、午後の明るさは蛍光灯を必要としません。
「ホームの皆さんに迷惑ばかりじゃないのか?」「・・・・。」
「食事は美味しい?」「・・・・。」
「何か楽しみはあるの?」「・・・・。」会話にならない。何を言っているのか分からないようだ。
すると突然、「駄目だ、駄目だ。早く帰らないと、食事の支度もあるし、・・・・」と言い出す、今度は私の方が無言に成る。
箪笥が一つあり、その上に父の神棚、横に小物がいろいろ飾られていた。それらを手に取り眺め、訪問者と撮ったであろう写真も飾られていた。
その中の一つ、写真立てに写っているのは猛であった。上の姉の息子で、もう三十になったであろう、園児時代の写真である。
彼が作ったプラモデルの自動車を誇らしげに掲げて、満面の笑み、何とも言えない一枚である。姉の家族は九州に居て、ほとんど東京に来れない。この写真は、家にあったものを持って来たものだ。

母親の優しさ、全ての子供たちの願いであることに間違いない。私も子供時代、母のおかげで幸せな日々を送ることが出来た。
子供は母親から生まれる。子供は母親の一部であり、子供の幸せは、そのまま母親自身の幸せと言えるのだと思う。
「お小遣いちょうだい」
小学一年、夕方私は、お店と厨房の境にある、料理を出す空間から母を覗き、聞いた。
「今日はね、もう五百円だよ」と仕事しながら母は言った。
自分でも、今日は使い過ぎていたのが分かっていた。まだ、お小遣いの値段が決まっていない年齢だった。普段なら三十円~五十円でも、「今日は終わり」と言われたり、最初から今日は無し、と言われることもあった。
この日は日曜日で、朝から「お小遣いちょうだい」と言うと、三十円~五十円くれた。それが何回か続いた。どうしてか分からないが、母なりに何か、金銭感覚を伝えたかったのだと思う。
使う場所は、近所の駄菓子屋か小さなおもちゃを売る、何でも屋みたいなお店だった。
何を買ったのか覚えていないが、ほとんど意味のないお菓子やたわいのないおもちゃだったと思う。時間つぶしの遊び道具でしかない。
その中に安いプラモデルもあった。プラモデルは良く買うのだが、根気が無く、あまり完成させた記憶がない。しかし、この日の午前中に買い、完成させた自動車のプラモデルは、お店で皆に見せた記憶がある。
勿論母も喜んでくれた。子供の喜びは母親の喜びである。
この日の「お小遣いちょうだい」は、母にはどのように聞こえていたのだろうか?私の我儘には寛大だった母。それを妬む姉たちは、今でも会うと口にする、材料の一つである。

母は、孫である猛にも深い愛情はあった。しかしあまり会うことが出来なかった。
この、猛の写真立てがあるのは昔から知ってはいたが、自分の幼少時代、記憶が重なったのは初めてのことだった。

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母の追憶 3 暴力


会社を辞めた。事情はいろいろあった。母の介護は大きな問題として頭の片隅から離れない。しかし十年以上勤めた会社、もったいない気持ちもあった。
まずは母の問題である。
ひとりで悩むことは無い。十年前でも介護関係の施設は多く在った。お金は少しの余裕はあったが、介護に期限が無い不安はある。そこでまず、大田区に相談に行った。
介護認定は、最初は要支援2(七段階の下から二番目)だったと思う。そして、地域包括支援センター(デイサービス)に週三回通うことにした。この辺りは、金銭的な負担もまだ軽かった。
私自身も、派遣登録での仕事を週三、四回しながら先のことを考えていた。と同時に五十も近くなったので、体力的な問題も考え、コナミスポーツクラブに通うことにした。
借地持ち家、母子の生活なので生活余裕がある訳ではないが、この頃の精神的な負担は軽かった。
とにかく他人に相談する事、特に行政に相談することは、「今」を生きる最大の特益だと思う。

母の生活も、いやいやだったが週三回昼間デイサービスに通う以外は、数少ないお客や友達とお店に居ることが多かった。
家事は出来なくなっていた。レンジ、トースター、電気ポット、朝昼はそれら自分で出来る簡単な食事で済まし、夜は、私がお弁当を買って来る。または車を出してファミレスに行くことも多かった。

始まりは雨の日の夜中だったと思う。ベットの頭越しに立つ母、誰かと話している。相手はいない。
私は目を覚ますが、それが夢なのか現実なのか分からなかった。身体を起こして目覚ましを手に取る、二時だった。
振り向き、「どうしたの?」と聞くと、呆然と立ち尽くし、「大きな男の人が居るんだよ、雨に濡れて髪の毛から雫が垂れてさあ~」と言った。
「何処に?」「隣の部屋さあ~」と言ったので、私はベットから起き上がり隣の部屋に行った。人の気配は無い。電気を点ける、いつもと変わらない。蒲団が敷いてある。外の雨雫がピシャピシャとサッシに音立てている。
「誰もいないし、蒲団も濡れてないよ」と言うと、母は蒲団を摩り首を捻り、「おかしいわね、今、本当に男の人が雨に濡れながら立っていたんだよ。・・・・ここに」
「何も問題ないから、寝るよ」と言って隣の部屋に入り、ベットに潜り込む。
母の認知症は、まだ軽い方だった。基本このくらいのことは問題ないと思う。しかし、違っていた。
この日は、同じようなことが三回あった。とても眠れたものではなかった。それから毎日ではないものの、「誰かが居る、大きな男の人が居る」と言われ、夜、起こされるようになった。
私も精神的にダメージが蓄積して、そして、とうとう手を上げてしまった。
「いつもいつも、いい加減にしろ!」と言って、ピシッ!とかなり強めに殴ってしまった。自分でやってしまったことなのに、ピシッ!と言う音だけは、闇の中から聞こえたように思えた。

父は嫌いだった。本当に弱い人間だった。昼間は普通に仕事している姿しか記憶に無かったが、毎晩のようにお酒を飲んでいた。
ドラマでありがちだが、お酒を飲んで母に暴力を振るう、そこに泣き叫ぶ幼子三人、幼少時代の日常の中にある、一つの光景だった。

小学一年だったと思うが、ハート型でピンク色の消しゴムを買った。それは真ん中にギザギザしたヒビがあり、二つに分かれるように出来ている。
ある日、厨房で働いている母に消しゴムを見せて、「お父さんとの仲はどのくらい?」と聞き、消しゴムの真ん中を大きく開いて、「このくらい?」と聞いたことがあった。
幼少の私は、母は、父に殴られてばかりいるものだから、父のことが嫌いだと思っていたようだ。それで、ハート型の消しゴムを開いて聞いたのだと思う。
母は仕事の手を休め、「貸して」と言った。ハート型の消しゴムを手に取り、ピッタリと閉じて、「これぐらい」と言った。
お店で仕事していた父も、その光景をチラッと見たように感じた。
母から、ピタッと締まったハート型の消しゴムを返され、意外な答えにボー然とした記憶がある。
父の暴力は、お酒を飲み過ぎた時に起こることで、普段はとてもおとなしい人である。私が中学生くらいになると、家族旅行は無くなり、父母二人だけで行くことが多くなった。本当に仲の良い父母だった。
中学三年のある晩、隣りの部屋で父が母に手を上げたとき、「やめろー!」と怒鳴り、父の腕を逆に引いたことがあった。意外ともろかった。私の方が身体が大きくなっていた。
それが初めて、父に対する反抗だった。後先それ一回だけだった。なぜなら、それ以降父が母に対する暴力は見なかった、少なくても私が見ることは無かった。
その時の母は、私に対して何か不満を言ったように思う。何を言ったかは聞き取れなかった。

ピシッ!と母を強く殴ったのは父ではなく、息子の私だった。
それからは、たびたびあることとなった。そして、ガスコンロで鍋に穴をあけるようになると、「火事だけは絶対に起こしては駄目だ!」と私の暴力も多くなった。
そしてデイサービスの方から、母の腫れ上がった顔に異変を抱き、母の処遇に対する訪問を何度も受けるようになった。
その頃の母の介護認定は、要介護2(七段階の下から四番目)まで上がっていた。

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母の追憶 2 鍋


責任とは、どういう言葉でしょうか?社会に対する責任、家族に対する責任。基本は、二つあるように思えます。
私の場合は独身なので、家族に対する責任(嫁いだ姉二人は、私にはそれほど関係ありません)は母だけ(父は既に他界)です。母に対しては、どんなことがあっても最後まで見守らなければいけません。
そして社会に対する責任です。会社勤めだと、どうしても自分勝手な行動が出来ないものです。良く聞く言葉に、「介護のために会社を辞める」そのようなことはありがちです。
会社を辞めて、将棋サロンを始める。
もしかしたら、心の奥底にそんな気持ちもあったと思います。それ以上に、サロン経営を甘く見積もっていたようです。
確かに母の認知症の初期には、自分も将来の不安から、何か変わらないといけない。そんな気持ちだったように思います。

私が四十八歳、母は七十九歳の時、ここが転機でした。
私は月~金は、昼間会社勤めです。土日もほとんど昼間は家にいません。母は一日中お店(家)に居ますが、この頃はお客さんも少なく、ほとんどテレビを観ているような感じでした。
それでも家事はしていたと思います。認知症は、物忘れがごくたまに、まだ生活に支障は出ていませんでしたが、・・・・私が台所で見たものとは、「鍋どうしたの?」「え!?何が?」
ガスコンロの上にある鍋、底が煤だらけで真っ黒い鍋を見つけた。下にも穴の開いた鍋が一つあった。
「これじゃ使えなくない?」
「使えないわね~。どうしたのかしら?」
「ここには自分と母さん以外は入らないでしょう。自分が知らないことなら、母さんが何かしたことに成るよ」
「そうよね。どうして鍋底が燃えたのかしら?」
火を点けたことを忘れてしまった。それだけであるが、そのショックが大きく、ほっとくことが出来なくなった。

小学生高学年の頃、母の手料理は蕎麦屋としての記憶の方が強かった。友達からは、「いつでも好きな物食べられて、いいなあ~」と羨ましがられたものである。かつ丼、カレーライス、天婦羅蕎麦、たぬきうどん、実際にそうであった。
昭和四十年代は、子供が食べたいときに食べられる時代では無かった。
店が終わるのは夜九時と決まっていた。だいたい八時頃、二番目の姉が厨房に入って支度する。勿論母も手伝うが、姉は小学生の頃からそうだった。両親は仕事で忙しい。
店を閉めると、お店で姉弟三人で夕食に成る。食べ盛りの私が、給食以後、九時まで我慢できるものではなかった。当然四時頃、お店の物を食べることに成る。
その頃お店のコーラやファンタも飲み放題だったので、炭水化物(糖質)+糖質の取り過ぎで、馬鹿になったのは当然だと思う。

ある日の午後、どうしてもオムライスが食べたかった。お店の献立には無いものの、母にねだることは多かった。
「ご飯炊くのに30分掛かるよ。蕎麦かうどんにしなさい」と厨房の方から母の声がした。
私はお店のテレビに目をやり、空腹と食べたい物を天秤に乗せる。ちょうど良い季節の夕方、西日はお店の中までも、日向と日陰をくっきりと分ける。蛍光灯の明かりが、まだ弱い時間帯であった。
「炊けるの待つからオムライスにして、」と誰もいないお店の椅子を引き、座りテレビを観るが、面白くなく、空腹だけがやけに身体に堪える。
母は厨房に居る。それだけでも、子供の私には特別なことではない。それが安心感と言うものである。
時計を見ると、30分経った。私は、「出来たー!」と厨房に入った。大きな窯と四角い流し、その奥に水樽が二つ、炊飯器も大きく、ガスコンロは三つあり、その一つに味噌汁の作り置きの鍋がある。隣りのまな板がまた大きい。
一日に二百人以上の調理をする。それが母の仕事場である。
「蒸すのに15分、調理に5分」とキッパリ言った。
「嘘つき」と言って、空腹に我慢できない私は、二階に行って置時計を持って来た。お店の奥にある大きな鏡の前で、置時計とにらめっこ。1分経つごとに長い針が一つ動く。
待つ1分は長い、空腹感を助長するだけだけど、「1分経った、後19分。また1分、後18分。長い!動いた、後17分」とお店で遊んでいる、馬鹿な自分を思い出す。
母は、何を思って厨房に居たのか?その表情を意識することは無かった。ただ、息子が腹を空かしているから何かを作る。意味など無い、母としての本能だと思う。

「味噌汁でも飲んで、待っていなさい」と厨房から声がした。
母はコンロに火を点けて、味噌汁を温める。厨房での母の姿は日常である。だから忘れることの出来ない姿として、瞼に残る。
フッと思い出す、子供時代の母の記憶だった。
コンロの上にある鍋、そこが煤だらけで真っ黒い鍋、今は昔の母ではなかった。

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母の追憶 1


母が亡くなったのは、平成二十九年二月一日のことです。位牌には世寿八十六才と書かれてありました。
死因を言えばいろいろ書けると思いますが、普通に老衰で良いと思います。
八年くらい前かな?症状が出だしたと思ったのは、・・・・認知症の始まりでした。
介護問題は個人差もあります。誰もが通る道ですし、大きな現実として捉えなくてはいけません。今時代は社会問題でもあるので、国としてほっとくことが出来ないようです。
私が経験したのは、今社会の中のことです。十年先二十年先は分かりませんが、私の経験が少なからずでも、皆様のお役に立てれば良いと思い書きました。

何度も書いていますが、私は蕎麦屋の息子です。両親と姉二人いました。
二十歳の頃、一人暮らしを始め、実家を出ました。上の姉は私が二十二歳の時に、結婚して実家を出ました。翌年父が脳溢血で亡くなり、五十六歳でした。今の私の年齢です。
父はお酒が好きで、かなりの量です。それも日本酒しか飲みません。血管が詰まる原因だったと思います。本当のところは分かりませんが、自分がお酒の量が多くても日本酒は一滴も飲みません。ただの思い込みから来る想像でしょうか?
母は父が亡くなった後、しばらく二番目の姉と、近所の人たちに助けて頂きながら、蕎麦屋を続けていました。この頃の私は、実家に戻らない親不孝者でした。本当に蕎麦屋を継ぐのを嫌がりました。
二年ほど経ち、理由は分かりませんが隣の家と共同で、二世帯住宅みたいな形で新築にしました。この辺りの事情(隣との関係)が分かりませんので、今からでは勝手に建て直すことが出来ません。その時には法律(話し合い)も関係して来ると思います。現実には無い話だと思います。
借地で持ち家、それが今の状態です。新築した際に母は、小さな喫茶店にしました。
そして数年後に二番目の姉も嫁いだことで、実家の部屋が空きました。直ぐにではありませんが、私が三十二歳の時に実家に戻りました。何だか図々しい話です。
それは、もう二十四年も前の話なのに、つい最近のように思い出します。この間私は、劇団生活を辞めて普通の会社勤めに成りました。生活が一定のパターンに入ると時間の経つのが早い早い、同じことの繰り返しだと変わったことが無いから、何かを思い出そうとしても何も無い。
それでも二十数年間、母と暮らしていたんだと思うと、平凡だったことが如何に幸せなことだと、気づかせてくれます。

朝と夜、食事は作って貰っていました。家計は微力ながら助けていた。本当にそんな毎日としか記憶が無い。母息子の関係なんてそんなものなのか?
私が子供の頃は、母が車を持っていた時期もあり、家族旅行は何回も行った。
実家に戻った私も車は有ったが、この間で母との旅行は一度も無かった。
しかし母の実家が千葉県市原市の山の中で、電車で行くのが大変なところだったため、年に二度位、車で行くことがあった。片道二時間、往復四時間掛かる。なぜかその時には、世間話と言うよりも少し重い話をした記憶がある。
「忠男がそんなこと話すのは初めてだね」
何回か聞いた言葉である。車の中だから意識して話している訳でもない。普段通りであると自分では思っているのだが、「忠男がそんなこと話すのは初めてだね」と耳に残っている。

母は結構気が強く、ものをハッキリ言う性格である。父は表面的には威厳を持っていたが、お酒に逃げるところが多かった。それがバランスと言うものだったのか?
父が亡くなった時、母は五十三歳だった。それ以後三十三年間、娘息子孫はいたが、結局一人で生きていたと言っても過言ではない。やや浮ついた話も叔父から聞いたことがあったが、確信は持てない。
お店(喫茶店)が小さすぎて、それほどお客が来る訳でもないが、私の微力と母の収入と年金、母一人が生活するには何とかなったと思う。将棋サロンと同じです。
私は友達も少なく寂しい人間だが、母は、その点は逆とも言えた。まあ、明るい性格がそうさせるのだと思う。
母の父が亡くなってからの三十三年間、五十からの人生はハッキリ五十までの人生とは違うものだと思う。なにか「人生二度ある」そんなこと言っていた人もいたような?
私自身も五十からサロンを始めて、五十までとは違うものになった。これから生きて行ければの話だが、どうだろう。

認知症の原因は何だったのか?単純な答えは、まだ無いと思う。人それぞれ違う脳だし、個人差は確実にある。
この個人差、最近私が常に思うことである。人間は、表面的にはほとんど同じ動物である。同じように教育しても同じにならない。それを同じ単一に見てしまう間違った解釈がある。この話は、また別の機会にします。
母は、丈夫な身体だった。たぶん認知症に成らなければ、九十以上でも生きたと思います。
それは中学の三年間、登下校に六時間歩いたと言っていた。戦時中の話です。蕎麦屋時代もほとんど立ち仕事だし、晩年はダンスを習っていた。私が大きいと思ったのは、小さな家なので階段の上り下りが多く、意外と足腰を鍛えたと思った。

認知症は現代病と言い、確かに食べ物に左右されるところもあるかも知れない。食べ過ぎることで侵させる細胞もあると思う。
やはり炭水化物と糖質(同じではある)は、ある程度控えることは認知症にも正しい。
運動しなければ、身体は衰えることも早くなる。と同じで、頭も使わなければ、衰える(認知症)ものだと思う。

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魔術師入門 3


ひと月が経った。このひと月の間は毎日のように通い、いくつかの魔術を学ぶことが出来た。魔術は技術や経験ではない、心の操作一つであることも分かった。つまり種や仕掛けが無いと言うことである。
ある日、大金持ちの陳さん(仮名)宅に招かれたことがあった。陳さんは会社の大事なお客様で、夕食の招待である。度々あることであるが、この日も会社の同僚三人でお伺いした。
食後、よくやる遊びがトランプである。些細な金額でゲームをする。ゲームは、大富豪・大貧民、ブラックジャック、ポーカー、セブンブリッジと何でも良い。結果、陳さんに勝たすことが目的となる。

この日は私の魔術の話で盛り上がり、早速お披露目となった。簡単なものは会社でも何回か見せたことがあり、それが今日の話題になった。
今居る、陳さん宅のリビングは大変古風で広い、昔風の暖炉がある。天井に本物の鷹の剥製が二羽飾られ、ドア横には虎の剥製が現物のままの姿で睨んでいた。
それだけでも、かなり効果ある魔術が出来ると思った。そしてここには書棚は無いが、奥のインテリア脇に、新聞紙がいくつも束になっているのに目を付けた。
陳さんと二人の同僚、人前での大掛かりな魔術は初めてである。食後の片付いたテーブル、大きなソファーにゆったりとくつろいでいる三人。同僚の一人はトランプを手遊びに、もう一人はワインを持っている。陳さんは中国の民族服で組んだ手が見えない。それら全て、魔術には良い材料になる。
私は暖炉の前に立ち、「これから魔術を始めます」と頭を下げた。陳さんと同僚二人は期待感で高揚する。
私は掌を合わして拝むように眼を瞑り、呪文を唱えた。暫くすると蛍光灯が点滅し始め暗くなる。陳さんと同僚二人は呆然として、唾を飲み込む音がやけに大きく聞こえた。
呪文の声と共に冷たい空気が広がり、少しづつ何かが変化して行くのが分かる。張りつめる緊張感、「ガオー!」といきなり剥製の虎が吠え出し、のそりと動き出した。同時に二羽の鷹も大きく羽を振り、広い天井を飛び回る。新聞の束、紐が勝手にほどき、何枚もひらりひらりと浮き上がり、そのまま暖炉に飛び込むと、いきなり暖炉の火が燃え上がる。
驚き、動けない同僚の手にあるトランプ、一枚のジョーカーから小人が出て来ると他のトランプに手足が出て来た。兵隊に成ってテーブルの上に並び、行進し始めた。もう一人のワイングラスは「パーン!」と破裂して飛び散った。陳さんの民族衣装からも羽が広がり、ふわりふわりと羽ばたき浮き始める。ほんの数分であるが、暖炉は燃え盛り、鷹と陳さんは飛び廻り、虎は吠え歩き周る。トランプは行進する。二人の同僚は頭を抱え震え、その間、私の呪文は続いた。

瞬時、気合いと共に一括すると、蛍光灯が輝き元の明るさに戻った。何も変わらない、初めの状態に戻ったのである。
頭を抱え震えていた同僚二人は、そ~と頭を上げて周りの様子を伺い、陳さんは目を回したのかソファーに大の字、実際には何も起こっていないのである。
魔術とは、単なる催眠術だった。
陳さんと二人の同僚は、それとは気づかづ、しばらく放心状態から抜け出せなかった。

時間が経ち落ち着くと、誰かとなくトランプが始まった。魔術のことは脇に置き、誰も話さず、とりあえず考えない様にしている皆がいた。
ゲームは神経衰弱と決まった。こんなものは簡単である。魔術を使えば、全部のカードが裏返しに見える。でも、ここでは勝ち負けを争うものではない。陳さんに勝たすのが目的となる。
何ゲームか終わった。私と同僚は、ぎりぎりの負け方をして陳さんを喜ばせた。
「最後のゲームをしよう。私と魔術師さん!!あなたとの一騎打ちだ」と陳さんは言った。
「分かりました。受けましょう」私は軽く頷いた。
「掛け金は一億円にします」と陳さんは軽い口調で言った。「え!?」と私は、二人の同僚にどうすれば良いのか視線を送ったが、分からないと言う表情を見せた。
一気に場の空気が重たくなった。
「掛け金の一億円なんてありません」と私は懇願する。
「いや、それなら命でも賭けますか?」と薄笑いを見せた。
「そんな~、私はカイジやディア・ハンターでもあるまいし、そんな賭け事出来ません」フッと、魔術のことを思い出した。勝つだけなら簡単である。それに、陳さんにとっての一億円なんて大した額でもない。
「あなたは私を馬鹿にした。魔術と言う小道具を使って、私をコケにしたのです。その報いを受けなければいけません」
と言うが、陳さんは普通の勝負であれ、勝てないように思えるし、ましてや魔術を使えば絶対に一億円は私のものだ。
「分かりました。命との勝負で受けましょう」と思わず言ってしまった。言った後に、「!!」男性との約束を思い出した。

後に引けなくなった。
勝負です。魔術を使わなくても勝てそうな気がしますが、勝負が進むに従い、形勢は少しづつ悪い方向に進みます。
そして最後、このカードを失えば負ける。その時、透視の魔術!!仕方がないのです。欲ではありません。
そして勝ちました。陳さんの絶望に満ちた表情は忘れることは出来ません。

ザザーと雨の降る夜、御園神社横にある、ひさしのある一件のお店の前に居ました。お店は古く薄汚れていて、扉は赤と黄色の明るい色合いが交互に四角、壁は黄色に近いオレンジ色?
看板には、・・・・「魔術師入門」!?時計は0時、今ある鮮明に残る魔術の記憶、いったい何だったのだろう。
魔術とは、催眠術と言うことなのだろうか?私には、分かりませんでした。


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魔術師入門 2


外は雨足が一層強くなり、ピカッーゴロゴロバキッと雷が轟き響き渡る。これも魔術?そう思わせるほど、タイミングが良かった。
男性は杖を暖炉の方に突き出すと、突然暖炉に火が点火、暖炉の炎は徐々に大きくなり、轟々と燃え出します。なおも男性は呪文を唱えながら杖を振り、書棚に杖を向けると勝手に書物が動き出し、棚から浮き上がる。何冊もの書物がひらりひらりと飛び出します。まるで書物が蝶々にでも成ったように、空中をひらりひらりと浮遊し出した?種も仕掛けも分かりません。私は茫然とし、観ているしかありませんでした。
男性の杖は、剥製の鹿、熊、虎、を次々に突き向けました。すると頭だけの剥製は、生きているように動き出します。飛び掛かろうとする鹿、熊と虎は吠え出します。頭だけでも命が吹き込まれたようです。
次に杖を、小さな置物の方に向けました。黒猫、カラス、鼠、小鳥、明らかに置物です。それがちょろちょろと部屋の中を駆けずり回り、走り出します。私の足元にも小鳥が来て、ピィピィと鳴いています。何度も言いますが、手の上に乗るほどの小さな置物だった。でも今は、どう見ても命ある生き物にしか見えません。
男性は恐怖に脅える私の形相を見ると、薄笑いを浮かべ、「如何でしょうか?まだ何かお見せしましょうか?」と聞いた。その姿は炎に包まれ、剥製の獣を背に、小さな動物や蝶になった本などを自由に操る、魔術師そのものだった。
七色の炎に浮かび上がる魔術師、そのように見えました。
「わ、分かった。分かった。・・・・分かりました」と私は、オドオド脅えながら、止めるように懇願した。すると男性は、また呪文を唱えながら杖を振り、暖炉、獣の剥製、書物、置物などに向けると、暖炉の炎は徐々に鎮火し始めた。ひらりひらり浮遊していた書物は、元の書棚に戻る。獣は吠えるのを止め。小さな動物も元あった場所に帰り、置物に戻る。

ザザーザザー、暫く呆然とし、フッと気が付くと強い降雨が響いていた。ピシャピシャと窓に当たる雨足で我に返る。
「ビックリしました。あなたの魔術は本物でした。感動しました」私は真っ青になりながら言った。
「有り難うございました。どうですか?ここは魔術師の教室です。習いたいとは思いませんか?」
「え!?私にも今のような魔術が、・・・・出来るように成るのですか?」
「ええ、成れます。誰でもひと月程度で出来るように成ります」
「ひと月?そんなに短時間で出来るのか?経験として、遣ってみるのも面白いかも知れない」と独り言のように言った。
「ただし前金に成ります。ひと月00万円に成ります」
「00万円!!・・・・少し高いようにも感じるか、どうしよう。一度出来るように成れば何度でも使える。経験もそうだが、覚えてみる価値もありそうだ」
「・・・・。」男性は無言でも、手ごたえを感じた表情を見せた。
酔いも少しありそうだが、迷っていても始まらない。ここは少し値が張るが、始める決心をした。
「それじゃ明日にでも00万円振り込みます。お願い致します」と頭を下げると、男性はすぐさま決まり事を言った。
「有り難うございます。・・・・そして、一つだけ注意事があります」
「!?」
「私の行う魔術は、古くからインドに伝わる伝統ある魔術です。ですから大変繊細な技術と精神力が必要と致します」
「繊細な技術と精神力?・・・・魔術に?」
「そうです。心の問題が大きく、間違った使い方をすると、いきなり効力が無くなると言うこともあるのです。それはあの魔女の宅急便でも、いきなり魔力が無くなると言うことがあったでしょう」
「魔女の宅急便?アニメですけど、何か参考に成りますか?」
「いや、そういう事もあると言う話です。ここで言う心とは、正しい心です。魔術を間違ったことに使うと魔力が無くなります」
「間違ったこと?人として正しいことに使う、と言うことですか?」
「そうです。欲、嘘、他人が傷つくこと、魔術を遣い正しい行為に反すれば、以後魔術は使えなくなります。よろしいですね。もう一度言います。魔術は繊細な心を必要と致します。ですから一般に悪いとしたことをすると、以後使えなくなります」
確かに魔術を遣い、悪いことに使えばいくらでも悪いことが出来そうである。私自身の心にも、魔術習得の裏に一瞬そのような悪鬼も横切った。
見透かされたのか?平静を装い、「分かりました。決して魔術を間違ったことには使いません。誓います。教えて下さい」と私は頭を下げた。

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魔術師入門 1


十数年前の話です。私は不思議な体験をしました。
その頃私は、蒲田にある小さな商社に勤めていました。
ある時期、蒲田の裏手、西蒲田にある小さな飲み屋(スナック)に通う、そんな遊びが続いたこともありました。
そしてその日も仕事終わりに細い路地を通り抜けて、蒲田のネオンとは逆に歩いて行き、蓮沼の方、御園神社の裏にある、飲み屋にいつものように行きました。
夜の11時頃飲み屋を出ると、強い風と共に軽く雨が降っていました。
「置き傘あるよ」と飲み屋のママの声が、後から聞こえました。風が強く、まだ小降りです。傘自体壊れるのも面倒なので、「いや、要らない。大丈夫」と断り、飲み屋を出ました。
少し歩き、御園神社の横に出ると、いきなりザザーと木々が大きく揺れた。ガタガタ、ガタガタと雨戸の盾板の揺れる音、ピューピューと気色の悪い強風のうねりに、雨足が急に強くなった。
私は堪らなく一件の古いお店のひさしに入り、しばらくジッとして、暗い曇り空を眺めていました。その間、雨足は強くなり、時たまピューピューと強い風がうねり周り、御園神社の木々が揺れ動きます。
私は憂鬱に成り、ひさしのある建物に寄りかかると、フッと古い薄汚れた扉に、埃が身体に舞うのが分かりました。「あーあー、汚いなあ~」と思いながらも埃を落とし、扉を見ると、少し変わったお店であることに気づきました。
勿論この時間、お店の明かりは点いていません。扉は赤と黄色の明るい色合いが交互に四角く、壁は黄色に近いオレンジ色。小さな看板には、「魔術師入門」と書いてありました。
派手な感じもする店構えだが、路地裏でもあり、地味で目立たない。その上、古く埃だらけで小汚い。
「こんなところに、不思議なお店もあるものだ」と感心するものの、ビチャビチャと雨足も強くなるので動けない。
その時、ひさしにある電球が点いた。ごそごそと中で物音がすると、いきなり扉が開き、五十代の白髪の男性が出て来た。
男性は細身で長身、強い眼光があった。「あ!すみません。お店の前で、この雨なもので、・・・・」と私は慌てた。
「いえ、結構です。見れば分かります。・・・・もし、興味あれば中に入りませんか?」といきなりの誘いであった。
興味など無かった。魔術なんて手品と大して変わらないと思う。それ以上に、こんな夜遅く知らないお客を招く方が気持ち悪い。
酔っているし、持ち合わせもあまりない。
「いえ、すみません。お邪魔でしたら、他に移動しますので・・・・」と断ると男性は、少し呪文のような言葉を小さく唱えた。
そして、「お金が無いのなら無料でも結構です。その代わり、払いたいと思った時、お客様の言い値で結構です。一万円以下でも構いません」
と言うので財布の中を覗いたら、五千円札一枚と千円札四枚あった。ゾッとし男性の顔を凝視した。
自分は酔っているし、何か騙されているようにも感じる。しかし手持ちも少ないし、取られるお金も限定的だ。雨で帰ることも面倒だし、自分の方が強そうだし、少し興味も出て来た。
「分かりました。一度見せて下さい。しかし、お金を払うかどうかは分かりません」と言うと、男性は微笑を浮かべ自信ありの表情を見せた。
「それでは、お入り下さい」と言われ、お店の中に通された。

お店の中は裸電球で暗く、五坪ほどの広さだった。西洋風で古風、一言でいうとそんな感じである。周りの書棚や置物などが雰囲気を創っている。
古めかしい珍しい書庫と言っても良いくらい、たくさんの難しそうな本が並んでいる。その間に、いくつかの鹿や熊や虎の首だけの剥製が気味悪そうに睨んでいる。棚に並んでいる置物なども、黒猫、カラス、鼠、小鳥、小さくても生きているような、剥製の様に並んでいた。
そして暖炉が一つ、今時期は使っていないようだが、下には灰の塊がごそっと、そのままである。二つある古風な木枠の窓には、カーテンが束ねてあり、外の雨飛沫の当たる音が不気味に聞こえる。扉の派手な赤と黄の色合いが、硝子の上に色付けしてあるのが分かる。
大きめのテーブルが一つ、花柄のクロスに蝋燭盾が二つ(一つに三本の蝋燭を立てる物)コップが二つ。魔術に使うのか?意味の分からない道具の入った、黒い箱が一つ置いてある。椅子がいくつかあり、その一つに座るように言われた。
男性は一度、奥の部屋に引っ込んだ。
まさしくらしいと言えば、そうである。裸電球は四つあるのが分かった。暗く感じていたのは、それぞれに薄い青色が塗ってあるものだった。
魔術は手品である。要するに種や仕掛けのあるもの、そう考えている自分がいる。こう言った部屋創りも仕掛けの一つだと思う。
男性は出て来た。それらしい、魔術師らしい服装で出て来たのである。
私は、少し笑いをこらえた。
「では、何を見せましょうか?」と杖を持ち両手を広げて、派手派手しそうな服装で言いった。
自分は何も分からないので、何でも良かった。少し考え、それなら自分でも、他人に見せられる魔術が良いかも知れないと思った。
「そうですね。私に、直ぐにでも出来そうな魔術を見せて下さい」と魔術など簡単で子供でも出来る遊び、と見くびった言い方をした。いや、そのつもりは無いけれど無知がそう言わせたと、言うのが正解かも知れません。
男性は、少しムッとした表情を見せたが、「分かりました」と言い、杖を振り出し呪文を唱えた。
すると、裸電球は四つ同時に点滅を始め、蝋燭の火が突然点火した。
私はビックリしたが、そんなのどこかのスイッチ一つで出来ること、その程度に思った。
男性の呪文の声は、だんだんと大きくなり、動きも杖を振り上げて派手になって行きました。
今度は外の雨足がさらにひどくなり、雷も轟くほどに大きくなり、扉や窓ガラスに強く雨飛沫が怖いほど当たり出した。
いったい、この現象はどう言うことなのか?恐怖で、身体の震えるのが自分自身で分かりました。

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もの思う56歳 3


旅?いえ、仕事です。15 地方の車内は東京と違います。これも、描写とギャグが上手くまとまった作品と自分の中では思っています。この前の二作とこの後出て来る、新六郷の青空 島田兄弟そして拝啓 M様へと、なかなか調子も良く、今とは違い書けるときは書けるものだと振り返りました。
拝啓 M様は、文中にもありますが、手紙の手法で、昔と現状を交差させながら書いたものです。書いた相手が40年以上会っていないM氏です。突然の手紙、貴方だったら驚きますよね。
それが誰でも読めるブログなら、なおさらです。その辺りの面白さを表現させる狙いがありました。別の友人から高評価を頂いた作品でもあり、自信を持つことも出来ました。
気を付けなければならないことは、M様に対して、事実でもマイナスに成ることは絶対に書けません。それが40年会っていない、相手の現状が分からない難しさでもあります。書ける範囲と言うものがありました。
幸い数か月後に会い、その後ラインで、喜んでくれたことを書いてもらったのでホッとしました。自分のしたこと、間違いなかったことにホッとしたのだと思います。
そのラインの文面に、島田兄弟の評価もあったことには驚きました。同じ時期にアップしたので、島田兄弟を出してもらえたのだとも思えます。
新六郷の青空は、地味でもありますが昔の思い出を、セピア色の描写と昔の子供の思考や感情を、情緒豊かに描きたいと思いました。
島田兄弟(仮名)や同級生平野(仮名)は実在していましたが、買い物の話は創作です。
最後のハンカチの件は思いつきで、上手くまとまったと自分でも関心しました。島田君も大人への階段を上り始めた、それが結論でした。

旅?いえ、仕事です。18 いまどきの母親?と、新六郷の青空4で昨年は終わりました。私レベルとしては、そこそこだったと思いますが、どうでしょうか?
年が明けると、11月辺りから意識し始めた創作に重きが出て来ます。
意識と言うものは、何だか自分自身の思い込みや間違った評価も生まれます。この場(ブログ)自体が実験なのだから、それはどうでも良いことでもありますが、やっぱり良い作品を創りたい。その思いは強く出ますが、力み過ぎると失敗します。
平凡の少し下 長岡和男 54歳は、そんな「もの」だったのでしょうか?
少し前の自分と今の自分、みなさん(書見者の平均的な声)との構成で平凡なドラマ的な創り方、ネタがあれば続きを書くかもしれませんが、分かりません。

頭の痛みと風邪、旅?いえ、遊びです。明から暗へ、いまどきの56歳、現実の中にある私自身の思考と描写でした。
今の生活の中でどのように生きているのか?試行錯誤している自分の姿が恥ずかしい。しかし、それ自体がブログなのだから仕方ありません。

旅、いえ地獄です。蜘蛛の糸?これも作品として、やはり私レベルでは、と思っています。
創作になると、嘘(フィクション)の書き方があります。それ自体普通のブログとは違うことに成りますが、嘘を嘘として読んで頂く、それが出来なければ創作の技術は伸びることはありません。
漫画は二次元です。それでも三次元で描ければ、現実に近づきます。
野球漫画(こればかりですみません)侍ジャイアンツ、巨人の星、キャプテン、ドカベン、あぶさん、いったいどのあたりから本当の実話になるのでしょう?
いや、全て創作漫画です。
創作意欲のあるブログ、その辺りの面白さを感じて頂ければ幸いです。
新六郷の青空 N・K君の思い出は、昔話にギャクを足したような内容になりました。やはりギャグが入る内容でも、立体に創る工夫は私には合っているようです。
(立体とは三次元のことです。漫画は二次元ですが、大人の漫画は嘘でも三次元的に書かれています。ギャグでも、こち亀やサザエさんやちびまる子ちゃんは、三次元の世界です。その違いを私なりの解釈で、二次元三次元と使わせて頂いています)

速報 仮面ライダー訴えられる?これも評価は難しいかな?
1は最近にないくらい読んで頂きましたが、2、3と次第に減りました。何が書いてあるのか?どんな手法なのか?それが分かればもういい。そんな感じだったのでしょう。
最後まで読んで頂く技術、そこが私の一番の課題であり、勉強しなくてはいけないところだと思います。
ギャグとしての在り方?あまりいろいろなことを盛り込むと、それこそ分からなくなる。文章としてのギャグは、書見者に疲れさせる部分もあるのだと思います。
一般的な読書の在り方とは、漫画とは違い異なるのかも知れません。

そして最後は、三年4組クラス会です。まあ、最近の仲間内の話です。私自身、両親は亡くなっているし姉二人は東京にいないし、仕事はメールと携帯で済みます。将棋もしないので、そちらの友人とも疎遠です。
人間を書く(生きた題材)ことが極めて少なく、だから創作に走るのだと思います。
ファンタジーに始まり、戦い、死後を連想させる。最後はブログの創作だったことを、皆に告げる。
私らしい立体のギャグ、今までの中で一番の大作になりました。

まだまだ未熟な作品しか書けません。続けることが、いつしか良作と出会えることもあるでしょう。
まずは100回が目標です。皆様が少しでも読んで頂ければ、その後も続くと思います。

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もの思う56歳 2


昨年の秋、長ちゃんの日々長考を始める時、とりあえずの目標は100回でした。
ブログ雑色駅前将棋サロンの時も、最初は100回が目標でした。そうすると週三回の以前は九カ月、週二回の今は、約一年間の目標になります。
手の届く目標、生活が変わらなければ続けられる目標とは、そのくらいがちょうど良いものだと思います。
ダイエットでも、いきなりの目標では達成出来ません。
人間は、三の数字に相性が良いと言われます。まずは三日続ける。出来れば三週間、続いて三カ月。三カ月で一つのパターン(生活のリズム)に入ると言われています。
どんなに苦境な生活でも、三カ月で慣れることを表します。
そんな訳ではありませんが、サロンブログは800回以上、終わりまで書くことが出来ました。喜べる事かどうか複雑な気持ちもあります。振り返るとこうなりました。
大した事ではありませんし、趣味のレベルでしかありません。自分で自分を褒められる、何か内側にあるもの、成長を感じさせることのように思えます。

大きなことは、少なくても読んで頂いて貰える人がいる。それが一番の原動力としてあります。その中には、叱咤激励いろいろな感情があると思いますが、やはり読んで頂ける文章を書かないことには始まりません。
そして始まった、長ちゃんの日々長考。とりあえずの半分以上、60回は越えました。いくつか振り返りたいと思います。
「辞める辛さは異常なもの。」将棋サロンの終わりが、新しいブログの始まりでした。実はこの時点で、ある程度のネタはありました。自信をもって年内は続けられる、そんなところでした。
中心は、勿論「旅?いえ、仕事です。」それ以外の創作は、この時点では何もありませんでした。

旅?いえ、仕事です。ここの「上諏訪駅」「JR中央本線・高尾行き」「河口湖の霧」これは三本で一つの作品になりますが、ここから私小説風な書き方も出て来ました。
以前サロンブログでも「長岡君の私記!」の他「小僧の高級駒」「うなぎねこ?」「黒戸家の人々(1)」など、結構創作はありました。まあ、将棋ネタに尽きて仕方なく書いていたとも言えました。
しかし今思うところは、後に成っても読んで頂ける文章とはどう言うものなのか?それを考えると、今を伝えるよりも時間を取り外す書き方、そちらにシフトすることを考えました。
一般的に新聞やネットニュースは、新鮮さがものを言います。しかし、日が経てば記事の価値は激減します。昨日の新聞など読む気にもなりません。それとは逆を行けば良いと言うことです。

そんな感じで、旅?いえ、仕事です。は続くものの、どうしても季節感(私小説としての時間)は取り外すことが出来ません。それくらいはしょうがないと思うところです。日本に居て四季を感じるところは、誰でも同じ五感が働くものです。書かない訳にはいきません。
私小説を書くには、どうしても文章の立体化は必要です。三次元を描くことで現実感を表します。季節感は、一つの大切な表現方法です。
実験としての文章創りは、今の生活に欠かせない電車内での表現方法にありました。一つはギャグ(先にありもしないことを書いて、それを想像にする)それと失敗かも知れませんが、読んで頂いている側の思考が、みなさんとして何回か書きました。

11月に入り、旅?いえ、仕事です。から離れた形での創作「正義って何?」これは聞いた話を、多少工夫して書いたものです。現実の話でもあるが、創作でもあるところです。読み手の心を動かす技術が必要です。
そのあたりが新聞のように一つの事件を、結果を書くことが記事であって、それ以外のものを書くことで時間を取り外し、作品を古くしない(程度はあります)ことに成ります。

旅?いえ、仕事です。13「みなさんとの会話」先ほども書きましたが、実験としてのものです。この中では、前半蒲田駅での暗い状況説明~ギャク~後半、淡々とみなさんとの会話で進む。ハッキリ言って起承転結に失敗しています。
何か単純な直しでは同じだと思い、そのままアップしました。失敗している作品なんて少なくないからとの思いです。勉強だし実験との考えもありました。
それとは別に、自分の評価と他人の評価は違います。その辺りは後の作品にも感じるところがありました。
友人のJR職員、ここで初めて今現実的に存在している、自分以外の人間(知人)が出て来る。それほど自分には交友関係が無いと寂しい現状を書いているのだが、・・・・虚しい。
その友人が結構喜んでくれた。自分には意外なことだった。これほどサロン時代より読まれていないブログに、少しだけ書いただけだった。
意外と喜んで貰えるものなのかと思い、その後、調子に乗ることに成る。

旅?いえ、仕事です。14「席主と元席主」次の「しょうもないやつだけど、お前が好きだ!」この辺りは前回の失敗を教訓にして、起承転結や情緒あたりを強く意識して書きました。
完全に私小説です。席主を元席主が見かけて書いた、自分自身の感情表現がメインで、小田原の秋、田舎の原風景の描写です。
雲の表現?問いとして聞かれても何も思いつきません。でも、外堀を埋めるように、他の存在を意識させながら最後に答え(雲)を書く。文章ならではのトリックがあります。
意外と読まれた作品でした。
私自身、決まった手法がありません。何でも書くこと、それは視野を広げることにつながります。
やはりアマチュアなのだから、書きたいことを書くことが、一番良い作品に出会えるコツであると言うことです。

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長澤忠男

Author:長澤忠男
人は「私はこういう人間だ」と自分で考えるその通りのものになります。
それと異なったものになることはない。

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